物理赤点バリバリ文系『果てオヤジ』の独学電験エベレスト登頂作戦!!!

オヤジが、ふとしたキッカケで、独学で電験三種に挑戦します。2021年8月の本番に向け、独学中。受かる前からなんですが、いつかはエベレストの八合目(電験2種合格)、そして電験エベレスト登頂(一種合格)を密かに目論んでいます。たまに電験以外のことにも触れます。

資格の奴隷にならないように

SNSが日常生活に浸透し過ぎることの最大の弊害。

それは、何でも他人と比較してしまい、SNSなどなかった1990年代まではさほど感じなくてもすんでいたマイクロレベルの格差を、今はひしひしと感じてしまわざるを得ないことだろう。

昔は、有名人やタレント、あるいはオタクなどごく一部の人々の情報しか発信されず、目に飛び込んでこなかったので、「ふうん、そういうものか」と流せ、いちいち精神をざわつかせなくとも日常生活が過ごせていた。
(60年代以降のノンデジタル生活経験者)

今は幼少期からツイッターやブログで、一般人のリアルな日常生活が目に入ってしまう。 

自らの子どもの頃を思い返すと、大人が見ている子どもよりも、実際の子どもはずっと大人に近い思考をしている。
大人が子どもに対して期待する子ども像を意識して演じる程度のことはできる。

そんな幼少期から、ついつい自らと他人を日常生活全般で、比較してしまうと、何やら自分の相対的ランキングのようなものが、否が応でも浮き彫りにされてしまう時代。

今の子どもは、大人には見えていない(あえて見ようとしていない)スクールカーストにもさらされているのだ。

果てオヤジの小学生の頃は、男子はせいぜいスポーツができるか(今でいう陽キャ)、勉強ができるか、程度の競争ですんでいた牧歌的時代。

しかも勉強ができても、ガリ勉(今でいう陰キャ)と蔑まれ、中学受験でもしない限り、勉強に励む子どもはいなかったような気がする。

今の子どもは、小学生の頃からスポーツや勉強もだが、何よりルックスや親の経済的基盤など、根性や努力よりもナチュラルボーンな要素でランク付けされ、「モテ」度合いがカースト上位に食い込む要因になっている(地域差はあるだろうが)。

これはかなり不幸なことだ。


こんな環境下で、日常生活すべての点において、他人と競争したり、自信喪失したりしていると、そりゃ、精神的に疲れ果ててしまうよな、と思う。

行動経済学でも説明されているが、通常、人はネガティブ要因に神経を尖らせてしまいがち。

放っておくと、ネガティブな事柄に心がフォーカスされるので、不安が増大するのだ。

無いものばかりを追い求めると、さらに自分を追い詰めてしまう結果になることも。

司法試験、公認会計士試験、司法書士試験などのツイッターには、働きながら、休日すべてを勉強に費やしていたり、仕事をやめて毎日10時間以上勉強したりしている人々の生活がリアルに描かれている。

ある司法書士受験生(今年不合格)は、記述式問題の結果を開示請求し、結果を見たところ、読みやすい字で、解答枠からはみ出ないように書かないと、どんどん減点されるとブログに書いていた。

実際の実務をパソコンで行う今の時代に、限られた時間で、手書きで速くかつ正確に書くことまで要求される時代錯誤のような試験(他の論文試験も似たようなもの)に血道を上げねばならない人々。

あるいは、とある公認会計士受験生。
社会人受験生で、コロナの緊急事態宣言下では、在宅勤務。
なんと1日10時間以上、勉強していたらしい。
休日はそれ以上の勉強時間。

今は出社しているが、平日は昼休憩は講義をオンラインで視聴し、通勤往復時間も、もちろん勉強。晩飯は10分程度ですませてまた勉強。

こんな人々を見ていると、まさに「資格の奴隷」だと感じてしまう。


何事にも上には上がある。

逆に下には下がある。

こういう「資格の奴隷」にならなくともよい今の自分の状況に、まず感謝。

足りないものを、健康や睡眠、日常生活の楽しみを犠牲にしてまで追い求めるのではなく、あるものをうまく使いながら、日常生活を楽しみたい。

SNSも趣味の世界を充実させるために利用する。

他人は他人。自分は自分。

この時代、一切他人と比較しないで生きる、というのは鴨長明にでもならぬ限り、不可能。

都会に生きる身としては、「うまく比較」する術、ネガティブ要因ではなく、自分に嘘をつかない程度にポジティブ要因に目を向ける術を意識していく。